横浜地方裁判所 昭和32年(ワ)196号 判決 1960年8月25日
原告 葛生勝之
被告 学校法人 吉沢学園
主文
被告は原告に対し、金三十万円及びこれに対する昭和三十二年三月二十八日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
原告のその余の請求を棄却する。
訴訟費用はこれを七分し、その六を原告の負担としその余を被告の負担とする。
この判決は第一項に限り、原告において金額五万円の担保を供するときは、仮に執行することができる。
事実
原告訴訟代理人は、被告は原告に対し、金二百万円及びこれに対する昭和三十二年三月二十八日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え、訴訟費用は被告の負担とするとの判決並びに担保を条件とする仮執行の宣言を求め、その請求原因として原告は、もと被告学校法人の設置する横浜第一商業高等学校第一学年の生徒であつて同校一年B組に所属していたが、昭和三十年十月六日の朝二時間目の書道の授業の開始前に同校三階十号教室において、右B組の生徒と共に席に着いて、その授業の担当者であつた同校の書道の教員(講師)訴外西川光男の入室を待つていたところ、偶々誰が持参したのか、原告の机の上に同級生訴外柏木成夫の書道の教科書が置いてあり、原告がそれに気付かずにいると、右柏木が原告の席に来て何か云いながら、その教科書を取りあげて原告の頭を打とうとしたので、原告は之をかわして柏木と話をしていた。その際、右西川が教室に入つて来て右の様子を見て、何等原因を質すこともせず、又原告がその事情を述べようとしたのにこれを聞かないで、右両名を教室の前方に呼出し、さあという掛声と共に、先ず柏木を同教室の板張の床上に投げとばし、続いて原告をも下手投により同床上に投げつけた。原告は、そのため左腰部に激しい疼痛を起し、立上ることも歩くこともできなくなつたので、右B組の主任教諭訴外松本英二に付添われて直ちに校医の診察を受け、次いで同日から同年十一月十五日まで横浜市内の生麦病院に、同日から翌昭和三十一年十一月二十九日まで東京都内の聖路加国際病院(以下聖路加病院という)に、それぞれ入院加療したが、遂に左大腿骨並びに左股関節化膿性骨髄炎による左股関節強直となつて不具者となつた。
右のとおり、西川光男は、被告学校法人の被用者としてその事業の執行中に、本件加害行為を故意又は過失によりひき起したのであるから、被告は原告に対し、西川の行為により原告の被つた損害を賠償すべき義務がある。原告は、一生の不具者となつて職業に就くことができず、病床にしんぎんしなければならないばかりでなく、患部が再度化膿する危険もあるといわれているので、そうなれば大手術の必要があり生命の危険すら伴うこととなる。原告は将来の望みを絶たれ、之がため原告の被る精神上の苦痛は極めて大きいから、その慰藉料は金二百万円を越えると考えられるが、原告は被告に対し、その一部として金二百万円及びこれに対する本件訴状が被告に送達された日の翌日である昭和三十二年三月二十八日以降完済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴請求に及ぶと述べ、被告の答弁に対し、生麦病院の医師に原告に対する診療上過誤があつたとの事実及び被告が西川光男の選任監督につき充分な注意をなしたとの事実は否認すると答え、
立証として、甲第一、二号証、第三号証の一、二、第四乃至第六号証、第七号証の一乃至七及び第八乃至第十四号証を提出し、証人依田安邦、同服部武及び同加藤光重の各証言並びに原告本人及び原告法定代理人葛生英夫各尋問の結果を援用し、乙第一号証、第五号証の二十九乃至五十九及び第七号証の成立は認めるが、その余の乙号各証は不知と答えた。
被告訴訟代理人は、原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、答弁として、原告の主張事実中、原告がもと被告学校法人の設置する横浜第一商業高等学校の第一学年の生徒であり、同校一年B組に所属していたこと、右B組の昭和三十年十月六日の朝二時間目の授業が書道の授業であつて、その際同校三階十号教室において西川光男が原告を投げたという原告主張の事故(以下本件事故という)が発生し、その際西川光男は同校の書道の教員(講師)としてその授業の担当者であつたこと、従つて西川光男が被告学校法人の被用者であり、本件事故が被告学校法人の事業の執行中に発生したということ及び本件事故後の経緯事情傷害の程度治癒状況等が原告主張のとおりであることは認めるが、その余は争う。本件事故はもともと西川光男が教科書を遊び道具にすることの非をさとらせ騒然としている教室の空気を静粛にしなければならないことを感じとつ嗟の間に他意なくなしたいわゆる「ことのはずみ」によるもので、同人はいわば笑の中に戒めを与えようとする軽い気持になり、相撲を取る恰好で原告を腰に乗せ自己の体を右にひねり原告を床板の上にずり落とすように倒したのである。原告は生麦病院において左大転子骨折、入院加療約三週間との診断を受けて同病院に入院し、同病院の医師が原告の骨折部に釘固定術をなしたところ、その後の経過が不良で、患部が化膿して骨髄炎を起すに至つたのである。すなわち西川の行為から直接生じた結果は、入院加療約三週間により治癒する程度の傷害に過ぎなかつたが、生麦病院の医師が右手術を行う際、不注意にも処置の慎重を欠きその結果原告の患部に黴菌が入り化膿を起し且つその後の治療をも誤つたこと等により、重大化し原告が不具となる結果を生じたのであつて、西川の行為と原告の不具との間には、右医師の診療上の過誤という中間原因が介入して因果関係が中断されているから原告の不具の結果は西川の行為により発生したものということはできない。仮りにそうでなくとも西川の行為から直接生じた結果は前記のとおり入院加療約三週間で治癒する程度の傷害であつて原告の不具という結果は生麦病院の医師の診療上の過誤という特別の事情が加つたことにより生じたものというべきであり、もとより右のような事情は真に偶然の成行によるもので予見可能の域外にあるものであるから、西川のなした行為により原告が不具となつたことの結果についてまで責を問われるいわれはないものである。
しかも仮りに、西川が不法行為者として如何なる責務を負うにせよ被告は西川の選任及び業務の監督につき充分な注意をなしていたから、被告に損害賠償の義務はない。即ち、被告は、西川の採用については、被告学校法人の当時の書道の教諭訴外青木朗の推薦に基き、西川の人物、経歴を良く吟味し、且つ同人が神奈川県知事より高等学校書道の助教諭免許状を授与されていることを確認した上、被告学校法人の代表者松本校長が西川に対し、校是の「安んじてことを託される人となれ」との趣旨を充分に説き、教師の本分に背くことがあつてはならないことを戒め、西川も同校長に対し、教師の本分に背かないことを誓つたので同人を採用したのであり、採用後においても、同校長或は訴外清水教頭が、他の教職員と共に西川に対しても、職員会議や朝礼等の際教師の本分についての訓戒や注意をして、常時充分にその指導監督をつくしてきたものである。なお仮に、被告に慰藉料支払の債務があるとしても上叙の事情等からその額を争うと述べ、
立証として、乙第一、二号証、第三号証の一乃至四、第四号証の一乃至七、第五号証の一乃至六十一及び第六、七号証を提出し、証人西川光男、同柏木成夫、同松本英二、同清水巖、同青木朗、同富森光雄及び同村山吉郎の各証言並びに被告代表者松本武雄尋問の結果を援用し、甲第四、五号証は成立を認めるが、その余の甲号各証は不知と答えた。
理由
原告が、もと被告学校法人の設置する横浜第一商業高等学校第一学年の生徒であつて、同校一年B組に所属していたこと、右B組の昭和三十年十月六日の朝二時間目の授業が書道の授業であつて、その際同校三階十号教室において本件事故が発生したがその際西川光男が同校の書道の教員(講師)としてその授業の担当者であつたこと、従つて西川光男は被告学校法人の被用者であり、本件事故が同人の被告学校法人の事業の執行中に発生したこと及び本件事故により、原告がその左腰部にその主張のような疼痛を覚えたので右B組の主任教諭松本英二に付添われて先ず校医の診察を受け、次いで同日から同年十一月十五日まで横浜市内の生麦病院に、同日から翌昭和三十一年十一月二十九日まで東京都内の聖路加病院に、それぞれ入院加療したが、遂に原告が左大腿骨並び 左股関節化膿性骨髄炎による左股関節強直を残し不具となつたことはいずれも当事者間に争いがない。
そして、証人柏木成夫、同加藤光重及び同西川光男の各証言並びに原告本人尋問の結果によれば、西川が右日時右教室に赴いた際、生徒の柏木成夫が書道の教科書で原告を打とうとしたのを現認したこと及び西川が右両名を黒板の前に呼出してその理由を尋ねたところ、柏木は原告が柏木の教科書を取つた旨述べ、原告はそれを争つたので、西川は、友達同志で互に罪をなすり合うのは良くない旨を告げ、先ず柏木を相撲の手を使つて同教室の床板に倒し、続いて原告をもほゞ同様の方法で倒したところ、原告の体が宙に浮き左腰を下にして横に水平となるような状況で床板に落ち、原告が左腰部を強く打つたことをそれぞれ認めることができ右認定を妨げるに足る証拠はない。
そこで、原告の不具が西川の右行為により生じたかどうかにつき検討すると、証人服部武及び同依田安邦の各証言によれば、原告は先ず生麦病院において訴外依田医師から左大転子骨折入院加療約三週間との診断を受け、直ちに同病院に入院したこと、同医師は、原告の受傷部位が股関節に近いので、後遺症として股関節の機能障害を残す恐れがあり、それを防ぐためには骨折部を固定して早く股関節の運動を開始する必要があると考えて、昭和三十年十月十三日釘固定術を施こしたこと、ところが、その後数日して患部が発熱化膿を始めたので抗生物質を注射する等の処置をしたが経過は不良で、原告は急性化膿性骨髄炎兼急性化膿性股関節炎となり、前記のように同年十一月十五日聖路加病院に転院したこと及び同病院において一年有余の間治療を受けたが全治しないまま同病院を退院したことをそれぞれ認めることができる。
ところで、被告は原告の患部が化膿して骨髄炎を起したのは依田医師の診療上の過誤に起因する旨主張し、前記証人服部及び同依田の各証言によれば、一方においては、依田医師が原告を診察した際原告の受傷部に外傷は認められなかつたこと、本件手術の際原告の内科的検査や血液検査もせず、化膿後も顕微鏡による化膿菌の検査をしたことがないこと及び聖路加病院において訴外服部医師が原告と同様な骨折につき手術をして化膿した事例はないことをそれぞれ認めることができるが、他方においては、一般的にいつて骨折部が比較的股関節に近いときは化膿が起らなくとも後遺症として股関節に多少の機能障害が残ることもありうること人体が骨折すると外傷がなくても骨折自体により、身体中の微菌が抵抗力の弱い骨折部で化膿して骨髄炎を起すことがあり、このことは特に発育の盛んな人に多く起き易いこと、原告の化膿が体内の微菌から生じたものかそれが体外から入つて起きたものか明らかでないこと、依田医師も従前本件手術と同様な手術を屡々経験したことがあり、本件の場合にも自信を以つて手術することができたこと及び本件手術前内科的検査や血液検査をしなかつたがそれは右手術は簡単なものであつたからであり、発熱し、化膿を始めてからはそれに効果があると考えられる諸種の抗生物質を施用する等の処置をしたことをそれぞれ認めることができ、これ等の事情と対比して考えると、先に認定した事実をもつては未だ依田医師の診療行為に過誤があつたと認めることはできないし、その他全証拠をもつてしても右事実を確認することができない。仮に、依田医師の診療行為に過誤があり、それが原告の不具に何程かの原因を与えたとしても、それは前認定の西川の行為から如何なる結果が発生するか不明な状態の下に加つたものであるから、右両名の行為が相まつて原告の不具という結果が生じたものというほかないところであり、従つて、右のような場合には同医師の診療行為に過誤のあることを理由として、被告や西川が原告の不具に対する責任を免がれることはできないものというべきである。
叙上説示のとおりである以上依田医師の原告になした診療行為がすべて医学上最も適切なものであつたか否かは別として、被告主張のように同医師の診療上の過誤の介入により西川の行為と原告の不具との間の因果関係が中断されたとし或は原告の不具は同医師の診療上の過誤という特別の事情からのみ生じたものであるとすることの当らないことは明かであるといわなければならない。
次に、被告は西川の選任監督につき充分な注意をした旨主張するので、この点につき考えるに、成立に争いのない乙第一号証、証人西川光男、同松本英二、同清水巖及び同青木朗の各証言並びに被告代表者松本武雄尋問の結果によれば、被告主張のとおり、西川の採用については、当時の被告学校法人の書道の教諭であつた訴外青木朗の、西川は人物も書道の技能も立派であるとの推薦に基き、同人が高等学校書道助教諭の資格を有していることを確認した上、被告代表者の松本校長が校是の「安んじてことを託される人となれ」との趣旨や教師の本分についての話をして採用したこと及び採用後においても、同校長或は清水教頭において、職員会議や朝礼等の際他の教職員と共に西川に対しても、一般的に教師の本分についての話をしたりしたことはそれぞれこれを認めることができるが、生徒が教室で騒いだ場合に教師として採るべき処置など具体的な面における指導監督につき遺漏がなかつたことは未だこれ認め難く殊に前記西川のなした行為の時、場所にかんがみこれを民法第七百十五条に使用者の責任を定めた法意に照すときは、右認定の諸事情をもつてしては未だ同条第一項但書にいう選任監督につき相当の注意をなしたものとは認めることはできず、その他これを肯認するに足る証拠はないから、被告の右主張は採用することができない。
しかりしからば、原告が上記認定の事故により不具となつたがため精神上多大の苦痛を蒙つていることはけだし見易いところといえるので、これに対する慰藉料の相当額につき考察するに、成立に争いのない乙第五号証の二十九乃至五十九、証人清水巖の証言により真正に成立したものと認める同第五号証の一乃至二十八、六十及び六十一、証人西川光男、同富森光雄の各証言並びに原告本人、原告法定代理人葛生英夫及び被告代表者松本武雄の各尋問の結果を綜合すれば、本件事故が発生するや、西川は勿論被告の関係者一同大いに恐縮し、即日、西川は松本校長に辞表を提出し同校長も原告の父に対し、被告において原告の治療費を負担する旨申し出たり等して深く陳謝したこと、原告の父も学校側の誠意ある態度に打たれ、西川を辞めさせないようにと同校長に述べたりしたこと、生麦病院入院中は同校長や西川が度々原告を見舞つて慰め励ましたこと、被告において原告の入院費用及びその関連費用一切並びに退院後、原告の使用する松葉杖及び便所用脚立代等として前後にわたり合計五十四万千円余の金員を支出したことしかるに原告が不具となつて退院したので、原告の父が松本校長に会つて退院後のことにつき話し合つたが、原告の父は被告において原告の生涯の生活を保障すべきことを主張し、同校長は金額と期限を定めての話ならとも角、金額にも期限にも制限のない話に応ずることはできないと主張して互に譲らず、右話合いは物別れとなつたこと、その後原告の父が当時の被告のP・T・A会長の富森光雄方を訪れ、学校の態度に誠意がないから、本件事故を入学期に「新聞に出して学校を叩く」旨述べたこと、そして昭和三十二年一月十八日の毎日新聞を始めとして数回にわたり本件事故についての記事が新聞や週刊誌に掲載されたこと、そこで西川は再び松本校長に辞意を表明し、同校長も同人を退職させるのやむなきに至り、その後同人は自宅で弟子に教えたり会社等に出張教授をしたりして生活していること、一方原告も本件事故当時、川崎市交通部上平間営業所の使廷をしていた父英夫の五男として平和な生活を送つていたものの一年を越える欠席のため横浜第一商業高等学校を自然退学となり同年九月八日逗子開成高等学校一年に入学して昭和三十五年三月同校を卒業し、最近は松葉杖を使用しないで歩けるようになつたが、不具のため就職もできず自宅におり、現在においても、畳の上に坐ること、左足の靴下をはくことや左足を洗つたりすること及び便所用脚立なしに大便をすること等が出来ない状態であり、且つ左腰部附近は約五ケ月位を周期として化膿を繰返していて右の状態は将来においても好転するか否か不明であることをそれぞれ認めることができる。尤も前掲各証拠中には右認定に反する部分もあるが、その点は措信できないし、他に右認定を妨げるに足る証拠はない。右認定の諸事実に原告の年令、前述の受傷当時の状況及び治療の経過等諸般の事情を綜合して斟酌すると、原告の本件受傷による精神的苦痛に対し被告が西川の使用者として支払うべき相当慰藉料は金三十万円と認めるのが相当である。従つて、被告は原告に対し、右金三十万円及びこれに対する本件訴状が被告に送達された日の翌日たること記録上明らかな昭和三十二年三月二十八日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるものと云うべきである。
よつて、原告の本訴請求は右の限変において正当として認容すべきであるが、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条第九十二条を、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 松尾巖 三和田大士 浅香恒久)